質感と存在と時間

田原桂一「光の彫刻展」が目黒の庭園美術館でやっていて、それがとてつもなく良いという専らの噂を聞きつけ散歩がてらにおりたことの無い目黒駅で下車。


歩いていくと東京には良く有りそうな大きくて白いオブジェが迎えてくれます。
初め見たときはあまり感動もせず、これを真夏に見たらまたちょっと違った感覚がするんだろうななんて、聊か覚めた目で横目に見ながら館内へ。
まず最初に書かなきゃいけないのは、朝香宮邸と作品のマッチング。これはすごい。
いたるところでにくい演出がされていて、あまりに行き過ぎた演出は天邪鬼な自分は辟易としてしまうのだけど、どちらもお互いを侵食することなく、あたかも建物や内装が作品のためにあったり、作品が床や窓や「光」、「採光」を利用していたりと要所で共存しているところが何ともいえない。
これを感じるには行った時間がとても味方になっていて、3時ごろの昼さがりに行くと全体的に窓から入ってくる光が中の作品を照らしているのだけど、5時も過ぎてくると屋内の照明が相対的に強くなってきたりしてそれによって本意では無いのかも知れないけれど作品が持っているメッセージ性が増すのです。その空間と作品との調和がこれまで体験したどんな展覧会とか展示会ではありえないものでした。
思わず声を出してしまった箇所が3箇所あります。
1つは1階にあったトルソーの中のクルクル回る手なのですが、動きをつけることによってさらに境界線のぼやけた感じが鮮明になるという錯覚に陥って、逆説的なのかそれが直球の狙いなのかなんて疑問を持ちながら凝視しているとクラクラしてくるので脱落。
2つ目は2階の「窓」が浴室にすっぽりはまっていたもの。
アールデコ調の建物の中にあるそれもアールデコな浴室にパリの曇った空をすっぽりはめてしまったあの空間としての作品は秀逸でした。あれぞ芸術。一瞥して思わず笑ってしまったけど、浅はかでした。
3つめはウインターガーデン。
代表的な作品がつめたい壁と床の部屋に並べられて、ガラスという材質がさらにいっそう引き立ってシャープに映えるんですね。外からの光があるから日中の光と夜の光ではずいぶん違って見えたのが印象的。
総じて感じたのは質感と存在です。(トルソーの石灰石とか)
紙とかキャンバスとか印画紙とか石とか空気とか光とか水とか色んな媒体があるんだけど、芸術家は「表現されるもの」と「表現するもの」の間でのせめぎあいみたいなものがあって、それをコーディネートする「表現者」だと思うのですが、表現するものの質感の中に表現されるものを閉じ込めて表現しなければいけないという制約を制約とせずに存在にまで高めた過程。
そんな、アートとしての根本的な命題が如実に明らかになっているのがこのシリーズでした。そういう意味ではとても根源的というか、原理的というか。詳しいことは分かりませんが、それでも手法はとても斬新。小手先のアート性なんて取るに足らないことを実感しながら、自嘲的に言ってみたところで何の前進にもなっていません。何かをやるってことはこういうことなんでしょうね。
なるべく自分の言葉で表現しようとあまり説明文や解説は読まないようにしているのですが、どこかに書いてあった次のような(原文不明。記憶の限り)文章には自分でも納得できないほどに納得してしまいました。

通常の写真家や芸術家は作品なり対象に「光」を従属させるのだが、田原桂一の場合は「光」に対象が屈しており、「光」を表現するために対象が存在する。

帰りは完全に日が落ちてしまっていて、暗闇の中に光る白いオブジェが来たときよりも存在感を増して意味あり気に佇んでいました。